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■答志島の概要

面積 6.98ku  答志町  356世帯
周囲 26.3km  和具町  153世帯
世帯数 770世帯  桃取町  261世帯
人口 2981人  平成12年国勢調査
■ 答志島の生活基盤は、漁業従事者が80%を占め、観光業・公務員等、間接的には住民の全てが漁業生産の影響を受けて生活しています。町内の行事は漁業組合・青年団等によって運営され住民が住民が強い結びつきを持って毎日の生活にいそしんでいる事は、離島としての特殊事情を克服して、独自の生活様式も生み出しています。その一つとして「寝屋子」という制度があり、昔と生活様式の全く変わった現代にも、その制度は多少の変化があったにせよ、脈々と受け継がれ現在は鳥羽市の有形文化財に指定されています。

■答志島の歴史

縄文土器 岩屋古墳
「歴史を秘めたロマンの島」答志島がこんなキャッチフレーズで呼ばれるには、わけがあります。
縄文時代以降、各時代の遺物や遺跡が多数知られているからです。 
素晴らしい歴史とロマンを秘めた答志島を一日ゆっくり散策するのも旅の楽しさの一つです。
縄文時代 大畑遺跡からは土偶。大間の浜からは石匙。
大築海貝塚からは縄文土器。
弥生時代 大畑遺跡、大間の浜遺跡、大築海貝塚があり当時の石包丁他約40点が現在も答志中学校に保管されています。古墳時代大畑、大答志、長者ヶ谷の遺跡があり古墳は17基が現存しています。その内でも岩屋山古墳は直径17mで両袖式横穴式石室で全長8.7m、巾2.2mのものです。
古墳時代 又、蟹穴式古墳は、現在東京国立博物館所蔵になっている須恵器の超大型長頸壷(高さ56.8cm)を副葬していました。また出土地点は不明ですが、同じ東京国立博物館にとても珍しい土師鳥形鈕脚付堆が所蔵されています。この時代奈佐遺跡から「和同開珎」の銀銭が出土しています。
奈良時代 奈良時代の答志島は、万葉の舞台ともなり、万葉歌人である柿本人麻呂の有名な歌が数点残されているのを見てもわかります。
戦国時代 鳥羽城主・九鬼嘉隆が関ケ原合戦に西軍に味方して敗れ、自刃した首塚、胴塚の史跡があり、県の重要文化財に指定されています。


■戦国武将-九鬼嘉隆

信長・秀吉のもと、水軍の将として活躍した九鬼嘉隆。「世界の海へ出る」という野望を抱いた志摩の若き海賊は、信長という稀代のカリスマと出会い、共鳴し、九鬼水軍を結成。伊勢長島を攻め、瀬戸内海の覇者・毛利水軍を撃破して石山本願寺を開城させるなど、信長の天下布武に欠かせぬ存在となる。乱世にあっても、外に目を向け続け、信長と共に世界を目指すことを夢見た海の男。
九鬼城主・九鬼定隆の次男。伊勢国司北畠氏に属していたが滝川一益を頼って織田信長に仕える。長島一向一揆を攻めに水軍を率いて参加、その功によって志摩・鳥羽城主となる。石山合戦では毛利水軍を撃破し九鬼水軍の名を高める。本能寺後は羽柴秀吉に従い四国、九州、小田原征伐や朝鮮の役に参加。関ヶ原では西軍に参加し敗戦したが子の九鬼守隆が東軍に参加したため助命を許されるが、その報が届く前に答志島にて自刃した。島内洞仙庵にて自害し首を葬った墓が首塚で、胴を葬った墓が胴塚として今も残っています。
詳しく知りたい方はこちらから。【NPO法人 ドラマ九鬼奔流で町おこしをする会】様のページへ。
 
■遊歩道 歴史と絶景

九鬼嘉隆首塚(築上山遊歩道) 九鬼嘉隆胴塚(築上山遊歩道)
九鬼水軍・九鬼嘉隆が1600年関ヶ原の戦いに敗れ、島内洞仙庵にて自害し首を葬った墓で、小高い山にあり鳥羽湾を望む絶景ポイントの一つです。また県の文化財に指定されている。
九鬼水軍・九鬼嘉隆が1600年関ヶ原の戦いに敗れ、島内洞仙庵にて自害し胴を葬った墓で、五輪塔が建てられている。首塚同様県の文化財に指定されている。
希望の丘(築上山遊歩道) 岩屋古墳(岩屋山遊歩道)
築上山遊歩道の東側に位置し、太平洋の絶景を楽しめます。ここに、しゃもじに願い事を書き、吊るしておくと願い事がかなうといわれています。しゃもじは各宿泊施設で求めることができます。
山頂約80mにある円墳で、横穴式石室がほぼ完全な形で残っています。直径22m、高さ2.5mの石組みの古墳で天井には大きな6枚岩がある。市の文化財に指定され現在遊歩道を整備中である。

美多羅志神社(岩屋山遊歩道) 潮音寺(岩屋山遊歩道)
里の産土神(子宝の神)で神社の祭神は八柱の神々である。正月4日には古式豊かな獅子舞神事が行われます。また、妊娠中にアワビをおそなえしお参りすると目のきれいな子供が生まれるといわれています。
西暦834年に建立。1150年以上経っており、平安・室町時代の仏像が安置され、注目されています。

八幡神社 西行法師歌碑
島の守護神である。旧暦1月18日には弓引神事(豊漁際)も行われます。島民は「八幡さん」と呼び大変慕われている神様です。柿元人麻呂の詠んだ「釧著く答志の崎にけふもかも大宮人の玉藻刈り羅む」(万葉集巻第一)の歌碑も有ります。
「さきしまの小石の白を高波の答志の浜にうち寄せてける」と刻まれ、答志の島には白色の石が敷き詰められていると詠んだ短歌である。西行は平安末期から鎌倉前期の僧歌人。(山下集下巻)

■島の風習

寝屋子
一定年齢に達した男子数名を預かり、世話をする制度で、以前は珍しい風習ではなかったが、現在では答志地区にその良き伝統が受け継がれている。寝屋子は食事の為に実家へ帰り、職業に従事するなどのほかは、寝屋で過ごし、共に寝屋子となった若い衆は生涯義兄弟の縁を結び、冠婚葬祭はもとより何事があってもすぐに駆け付けてくれる。この制度がいつから始まったかは、はっきりしないが、百年以上前から続き、一説には九鬼水軍がいざと言う時に船のこぎ手を集める際、寝屋子を回れば早く人を集められることができたとも言われる。昭和60年2月19日に市の無形民俗文化財に指定されました。
まるはち

「お的」(弓引神事)
答志島を何気なく散策していると、個人の家の戸とか船等いたるところに墨で書かれたマルハチのマークを見かけます。これは家内安全を願い魔よけとして書かれています。マルハチの八は八幡神社の記しで、年に一度の八幡神社大漁祈願際(旧1月18日)の時に「お的」という行事で運ばれる神聖なる墨を島の男らが奪い合い、その墨で書かれたもの。「お的」(弓引神事ともいう)は祭の中でも最も盛り上がる迫力万点の行事です。
   

■答志島郷土料理

郷土料理は各家庭により、味付けや材料が異なります。また他にも郷土料理の種類は多数ございます。

あらめ巻き
●煮味噌(イノ貝・タコ等を玉ねぎなどの野菜と味噌で煮込む)
●めひび汁(ワカメの根をきざみ。熱い出し汁をかける)
●ニシ汁(ニシ貝をつぶして、そのエキスをだしで割る)
●アラメ巻(季節の魚をアラメで巻き、醤油味で炊く)
●ナマス(ナマコと大根、人参の千切りを酢につける)
●ワカメしゃぶ(生ワカメのしゃぶしゃぶ、色変化と香りがよい)
●磯魚の刺身(メバル、ギト、アカウオ等)
●ワカメ茎佃煮(ワカメの茎を甘辛く煮詰める)
●いわし団子(イワシのすり身にネギ、人参等野菜をまぜて握る)
●磯もの(マンメ、ニシ、亀の手など塩茹でにする)
     

■答志島の祭り

◆島民行事◆
■1月2日 船祭り・大漁祈願 ■7月14日 天王祭・巨大七夕が立つ
■1月4日 祷屋際・獅子舞奉納 ■8月13〜15日 盆行事
■1月子の日 ねぎの火をたき餅を食う ■10月20日 えびす講
■2月3日 節分・あらくさいわし ■11月5日 山の神さん
■旧1月17〜19日 八幡神社大漁祈願祭 ■11月14日 だいし講・だんごを作る
■5月5日 しょうぶ節句 ■12月5日 なまこ海女の解禁
■6月15日 祷屋際・子供みこし ■12月8日 ねこも三文
■7月1日 海女漁解禁 年の暮れ 餅つき・しめ縄作り